きらびやかな宮廷文化や雅な貴族の恋模様が語り継がれる平安時代。大河ドラマなどを通じて当時の華やかな暮らしに憧れを抱く人が多い一方、ふと湧き上がる素朴な疑問があります。「あの何層にも重ね着した着物で、一体どうやって用を足していたのか?」という点です。
実は、当時の排泄事情をひもとくと、現代の清潔な水洗トイレ環境からは想像もつかない驚きの工夫と、雅な世界の裏側に潜む過酷な現実が浮かび上がってきます。貴族たちが愛用したポータブル便器の仕組みから、お尻を拭くための驚きの道具、そして排泄物処理を担った人々まで、文献と最新の歴史研究からその真相を徹底解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:貴族は部屋に設置する移動式おまる「樋箱(ひばこ)」を使用し、十二単の女性は後ろ向きに跨いで用を足していた。
- 要点2:トイレットペーパーの主流は高級な紙ではなく「籌木(ちゅうぎ/クソベラ)」と呼ばれる薄い木べらだった。
- 要点3:排泄物は「樋洗童(ひあらわしべ)」が川などへ投棄しており、平安京の市中や小川は深刻な衛生課題を抱えていた。
【衝撃の真相】重さ20キロの十二単を着てどう排泄した?貴族女性のトイレ作法
平安貴族の女性が身にまとっていた正装「十二単(正しくは五衣唐衣裳)」は、何枚もの着物を重ねた結果、総重量が15キロ〜20キロにも達しました。これほど重く動きづらい衣装を着たまま、座敷から遠く離れた便所まで歩いていくことは到底不可能です。
そこで貴族社会で用いられていたのが、部屋の中に持ち運んで使用する専用のおまる「樋箱(ひばこ)」でした。寝殿造りの建物には固定されたトイレ室が存在せず、屏風や几帳(きちょう)で周囲の視線を遮り、プライベートな空間を即席で作って用を足していたのです。
用を足す際の手順も独特でした。着物をすべて脱ぐのは極めて困難なため、十二単の後ろ側の裾を持ち上げ、長い袴(はかま)の股割れ部分を開いて便器の上に腰を下ろします。このとき、「便器に背を向けて跨ぐ」のではなく、衣服の前側が汚れるのを防ぐために前方を向いた姿勢(便器の引き出し部分に背を向ける形)で跨いでいたことが記録から判明しています。
専用おまる「樋箱」の驚くべき構造と使い方|貴族のプライベート空間のリアル
貴族が使っていた「樋箱」は、単なる桶ではありません。工芸品としての美しさと、悪臭・跳ね返りを防ぐ機能性を兼ね備えた精密な道具でした。
樋箱の外見は、漆塗りが施された高級感のある木箱です。上部には腰掛けるための長方形の穴が開いており、中央部には鳥居のような形の手すり(鳥居木)が取り付けられているタイプもありました。この手すりは、裾が落ちて汚れるのを防ぐ支えや、重い衣装をまとったままバランスを保つための持ち手として機能していたと考えられています。
箱の内部には「引き出し(受箱)」が組み込まれており、底にはあらかじめ砂や灰、モミガラなどが敷き詰められていました。排泄物が落ちると砂に包まれて臭いが抑えられ、尿の跳ね返りを防ぐサンドドライ方式が採用されていたのです。
拭くものは紙ではなく木の板?「籌木(クソベラ)」と当時の高級紙事情
用を足した後の始末にも、時代ならではの特徴があります。現代のように柔らかなトイレットペーパーが存在しない平安時代、主流として使われていたのは「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる薄い木のヘラでした。
別名「クソベラ」とも呼ばれるこの木片は、長さ十数センチ、幅2〜3センチ程度の平らな板で、排泄物をこそぎ落とすようにして使用されました。平城京や平安京の遺跡発掘調査でも、便所遺構から大量の籌木が出土しており、身分を問わず広く使われていた必需品であったことが裏付けられています。
一方で、最高位の上流貴族は紙を使うこともありました。ただし使われたのは貴重な高級和紙ではなく、使い古した公文書や手紙を漉き直した「宿紙(しゅくし)」や、薄手の雑紙(浅草紙のルーツとなる再生紙)でした。紙そのものが極めて貴重だった時代、紙で尻を拭く行為自体が一部の権力者にしか許されない破格の贅沢だったのです。
排泄物はどこへ消えたのか?「樋洗童」の過酷な役目と驚きの臭い対策
樋箱に溜まった排泄物の後片付けは、貴族本人が行うことは決してありませんでした。この汚れ仕事を一手に引き受けていたのが、「樋洗童(ひあらわしべ)」と呼ばれる身分の低い下男・下女たちです。
樋洗童は、貴族が用を足し終えると速やかに樋箱から引き出しを取り出し、中身を捨てて川の水で綺麗に洗浄し、再び新しい砂を敷いて元の位置へ戻す役目を担っていました。臭気や不潔さを貴族の生活空間に残さないため、迅速な回収と洗浄が常に求められていました。
また、平安貴族は強烈な臭い対策にも余念がありませんでした。貴族の屋敷では常に高価な香木を焚き染めており、衣服や髪に香りを移す「薫物(たきもの)」の文化が発達しました。この雅な香粉や香木の流行は、排泄物や体臭、風呂に毎日入れない生活環境から生じる悪臭を打ち消すための実用的なマスキング手段でもあったのです。
『源氏物語』にはなぜトイレ描写がない?雅の裏に隠された平安京のリアルな衛生環境
紫式部の『源氏物語』をはじめとする平安文学には、恋愛や宴、衣装の描写が綿密に描かれているものの、トイレに関する生々しい描写は一切登場しません。これは当時の宮廷文化において、排泄や穢れ(けがれ)を公の話題にすることが極めて強いタブーとされていたためです。
しかし、文学が描く雅な世界とは裏腹に、実際の平安京の衛生状態は極めて深刻でした。樋洗童によって回収された貴族の排泄物や、市中のゴミは、貴族邸宅の庭を流れる遣水(やりみず)から都を貫く鴨川や桂川、あるいは市中の側溝へと日常的に投棄されていました。
下水道の概念が未発達だったため、雨が降れば側溝から汚水が都大路へあふれ出し、ハエや悪臭が充満する劣悪な環境が広がっていたと記録されています。平安京で疫病(天然痘や赤痢など)が頻繁に大流行した背景には、この不衛生な都市インフラが大きく影響していました。
貴族と庶民の格差|垂れ流しの都大路と庶民の過酷なトイレ事情
屋敷内で樋箱を使い、従者に片付けを任せていた貴族に対し、平安時代の庶民のトイレ事情はさらに過酷なものでした。
長屋や掘っ立て小屋に住んでいた庶民には、専用の便所など用意されていません。基本的には「屋外での野垂れ流し」や、川べり・藪の中での排泄が日常茶飯事でした。川や側溝の上に板を渡しただけの原始的な「川屋(かわや)」が作られることもありましたが、川の上流で用を足し、下流でその水を生活用水として使うケースも多く、衛生面のリスクは非常に高い状態でした。
江戸時代のように排泄物が農作物の肥料(下肥)として金銭で取引されるリサイクルシステムが確立するのは、鎌倉〜室町時代以降のことです。平安時代においては、排泄物はただ捨てられるだけの「厄介なゴミ」であり、都の景観と衛生を脅かす最大の要因となっていました。
【平安時代のトイレ】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:十二単を着たままトイレで粗相をしてしまう事故はなかったのですか?
A1:記録には残されていませんが、着崩れや裾の汚れといったトラブルは日常茶飯事だったと推測されます。そのため、貴族女性には身の回りの世話をする侍女(女房)が常に付き添い、裾を持ち上げてサポートしていました。
Q2:樋箱(ひばこ)は男性貴族も使っていたのですか?
A2:はい、男性貴族も同様に樋箱を使用していました。男性の場合は衣服の構造上、女性よりも容易に用を足すことができましたが、プライバシーを守るために几帳の陰で樋箱を用いるスタイルは共通していました。
Q3:平安時代の人々は排泄後に手を洗っていたのですか?
A3:貴族階級では、用を足した後に従者が用意した金盥(かなだらい)の水で手を清める習慣がありました。宗教的な「穢れ」を落とす意味合いが強く、現代のような除菌・殺菌を目的とした手洗いとはニュアンスが異なりますが、手水(ちょうず)の作法は存在していました。
まとめ:雅な文化の足元にあった知られざる平安京のリアル
華やかな国風文化が花開いた平安時代ですが、その足元には、重厚な装束と格闘しながら樋箱を使い、木べらでお尻を拭くという生々しい日常がありました。そして、その優雅な暮らしは樋洗童をはじめとする名もなき人々の過酷な労働によって支えられていたのです。
歴史の教科書やドラマではなかなか描かれない生活史のリアルを知ることで、平安貴族たちの美意識や、現代日本の衛生技術のありがたみがより立体的に見えてきます。 (出典: 平安 時代 の トイレ(Yahoo!ニュース))